がららっ!
思ってた以上の音がした。その音に自分自身驚く。
けど、そんなこと感慨深く思っている場合じゃない。
わたしは開け放ったドアの向こう、電灯の明かりに満ちている生徒会室に踏み込んだ。
「時間どおりですね」
ちょうど視線の先、会議用の長机、それに備え付けなんだろうか、青いパイプ椅子に腰掛けた学ランの男が薄く笑いを浮かべたまま私に言った。
部屋の中、ほかに誰もいない。
ううん、日曜のこの時間に誰かが学校にいるほうがおかしいんだ。
「わざわざご苦労様です。どうしました? 遠慮せずに適当な椅子に座ってくださいよ」
この男・・・今現在はこの部屋の正当な管理者。生徒会長だ。直接会って話した事はないけれどイベントごとに生徒代表として何か話す姿は何度も見かけたことがある。
改めてこの距離で見てみると意外なほどに眼が細かった。遠くからは眼鏡をかけているって事ぐらいしかわからなかったけれど、その眼鏡越しに見える細い眼はどこかしら高校生という年相応さをもっておらず、黒の学ランとあいまって、それこそ小脇に聖書でも抱えていれば神父として通用するんじゃないかと思えるほどに落ち着いた態度だった。
わたしはこの男に呼び出された。日曜日、こんな不自然な時間に。
その理由には半分だけ心当たりがある。
「どうしました? 立っていても疲れるだけじゃないですか」
「いい。このままで」
わたしは座らなかった。
怖かったのかもしれない。
あまりにも落ち着き払ったこの男と同じ目線で話をしたらきっと何一つ逆らうことなどできなくなってしまいそうだったから。
そして男、いや、名前は知っている、確か紀氏功治だったような気がする・・・その紀氏が私の言葉に細い眼を更に細くした。まるで私の心の中、観察するかのように。
「別に長居するつもりはない。早く用件を言ってくれ」
思わず素の言葉が出てくる。男言葉と言われているもの。けれど私にはその言い方自体が気に入らない。なんで『男言葉』なんだ? 女が使ったって別におかしくないはずなのに。
そんな反感をわたしは常日頃から持っている。
だからなのか男である紀氏に圧倒されているような現状が不快でならなかった。
「おやおや。残念ですね。せっかく美味しい紅茶を用意したのに。ウバのお茶、かなりいいものなんですけどね」
がたっと音を立てて紀氏が立ち上がった。私のほうが見下ろすような形だったものがあっという間に私が見上げる形になる。女としては背の高いほうの私も紀氏には頭半分は低かった。
優男に見えていた。
けれどもそれは全体のバランスが取れていた所以であって、恐らく中肉中背より少し背が高い程度の身体は十分なしなやかさと力強さとを感じさせた。そう、女のわたしには決して作れない筋肉のバランスを。
一瞬、逃げていた。半歩後ずさっていた。その事実に気付き、心の中に小さくない反感が芽生えた。
「誤魔化すな! 早く用件を言え!!!」
それを言葉にした。そうでもないとこの空間、私のいてもいい場所まで押さえ込まれてしまいそうだったから。
何時の間にか右手をぎゅっと握り締めて胸元に引き付けてた。
「用件ですか・・・急がば回れとも慌てる乞食はもらいが少ないとも言うんですけどねぇ。ま、お望みならば仕方ありませんけど」
どん。
部屋中に響き渡る大きな音。
床においてあったのか、机に隠れて見えなかった黒い鞄が自身を私の視線から遮っていた長机の上に置かれた。学校指定の黒皮の鞄。紀氏がそれを開けて中からB2サイズの角封筒を取り出す。
それを、私の前の机に放り投げた。
ばさっ。
「あっ!」
封をしていなかった角封筒はいとも容易くその中身を吐き出す。薄暗い色彩で描かれたそれはまぎれもなくわたしと和恵の姿だった。
ただし、二人とも裸の。
正確に言えば裸じゃない。二人とも制服は着ている。ううん、それも正確じゃない。半分だけ着てる・・・脱ぎ掛けている。
ただそれだけならば、更衣室のように着替えている途中の写真だったならわたしもこんなに焦らなかっただろう。
そう、それは誰にも知られてはいけないわたしたちの姿だった。
一瞬、意識が身体を離れていた。
はっと気付き、大急ぎで写真を封筒に戻し、その角封筒を胸元に抱きかかえる。
ううん、そうしようとした。
けれど。
「あっ」
「ダメですよ、ただではさしあげられません」
いつの間にだろう、本当に目と鼻の先にまで近づいていた紀氏がわたしの手から写真の入った角封筒を取り上げていた。子供からおもちゃを取り上げるかのように。
「か、返せ!」
「返すも何も・・・もともと貴女のではありませんよ、水島しのぶさん」
封筒を高く上げ、そして見下すようにわたしのフルネームを言う紀氏功治。
瞬間、わたしの怒りは頂点まで達し、沸騰していた。
「ふざけるなぁ!!!」
正拳突き。
背の高さゆえにアッパーカット気味で。
距離的には不十分だとわかってはいた。けれども腰から回転させて肩と肘とを入れれば十分な威力のはずだった。長年の練習が反射的に出ていた。
けれど。
「!?」
かわされた。
信じられない。
わたしの繰り出した正拳は紀氏の左手で受け止められていた。
いや、違う。受けた手のひらを回転させて軌道を変えさせられていた。
そう、万歳するかのようにその手に吸い付いて顔面から遠く離れてしまっていた。
もちろん、万歳の格好じゃない。だって紀氏には右手が残っている。
その右手は高く上げていた角封筒を落としていた。
拾うひまなどなかった。
ずいって。
踏み込まれていた。もう正拳や蹴りが使えない距離まで。
その右手に視線が吸い付く。
平手。
それが眼に見えない速さに溶けて消えた。
「!!!」
思わず眼をつぶっていた。
殴られた! そう思っていた。
反射的に首を竦めていた。
けれどもいつまで待っても痛みはこなかった。
何回も荒い呼吸を繰り返す。
そして、殴られていないことを確認しながらおどおどと眼を開けた。
「やれやれだ。しょうがない人ですねぇ」
なんでもないことだったかのように紀氏が表情一つ変えずにそこにいた。
右手は捕まえられていた。
平手打ち・・・しかも鞭のようにしならせる普通の平手打ちじゃなく、手首の骨も使った掌底。その軌道は眼で追っただけでもわたしの顎の骨を狙っていた。そう、確実に脳を揺らし、意識を一撃で断ち切る技。
一般に拳の方が速いと思われている。けれどわたしのように格闘技を少しは身に付けた人間ならば平手の方が時として拳よりも速く威力があることを知っている。
逆を言えば格闘技を知らない人間・・・特に打撃系格闘技(わたしの場合は糸東流空手だけれども、紀氏は? 格闘技やっているなんて聞いたこともない・・・)に踏み込んでいない人間には今の掌打は決してできないはずだ。
そして、いくらそのような意識の覚悟がなかったとはいえ、わたしは確実に負けた。
確信としてわかる。
この男には絶対勝てないって・・・
「水島しのぶ。中学時代には空手の全国大会の出場経験があり。なるほど、気が強いわけです」
紀氏が、眼鏡を外した。胸ポケットにしまった。
わたしの右腕を掴んだまま。
そして身をかがめて角封筒を拾う。
蹴りを顔面に打ち込むチャンスだった。
最高の形だった。
けれど。
痛くはなかった。
それでも右腕が極められている。
思いっきり蹴り飛ばせば離すかも知れない。
けど、離さないかも知れない。
離さなかった場合、どういう目にあわされてしまうのか・・・
その戸惑いが拾い上げる十分な時間を作ってしまっていた。
広がっている。飛び散ってはいないものの、写真によっては半分近く角封筒から身を乗り出している。それを封筒の上から親指で抑える形で紀氏は拾い上げていた。
視線に割り込ませるように見せつける。
そう、放課後の誰もいない教室で胸をはだけた和恵のスカートの中にわたしが頭を入れている姿、それを空間から切り取った写真。
「その気の強さのあまりに同性愛に走る、ですか」
さげずむように、あわれむように。
そうだったらどれほど楽だったろう。思いっきり怒りをぶつけられる。例え敵わないとわかっていても。
しかし、何の感情もこもっていない、実験結果を朗読するような声で言われたわたしはどうすればよかったのか、わからなかった。
ただ、わけのわからない怒りが不自然な形で現れただけだった。それを視線に込めて睨みつけるだけしかできなかった。
「おお、怖い怖い。これではこの写真をあげるなんてできませんねぇ」
「な!」
からかうような口調。そこには絶対的な立場の違いを認識するようにと押し付けられた言外の意が露骨に見えていた。
改めて自分がどれほど不利な状況に立っているのか気付いて愕然とした。
「だってそうでしょう? 親の敵でも見るような眼で見られていたら誰だってそう思いますよ。何か欲しいものがあるときは誠意を尽くす・・・そうでしょう?」
そこのこの言葉。あからさまにからかっている。
この不利な状況。そして猫がネズミをいたぶって遊んでいるかのような言葉。
わたしは精一杯の攻撃をした。
「誠意? 誠意だって! そんなの隠し撮りなんかした下司野郎に言われたくない!」
一瞬の空白。
それは真理を突きこの男のプライドを傷つけた瞬間。
そう思ってた。
けれど。
「下司野郎。なるほどね。否定はしません・・・しかし困りましたねぇ。下司野郎と評価されてしまった以上は下司野郎として行動しませんと」
「!? ま、まさか・・・」
言葉そのものはわたしの言葉に怒りを持ち”ぶちきれた”ものだったのかも知れない。けれど顔色一つ変えず淡々と紡がれるその言葉は最初から予定されていたかのように丁寧に淀みなかった。反撃の言葉のはずなのに。
だからこそ事実を語っている。わたしがどんな態度に出るかシュミレーションしていた。
試験管の中で何かが反応するのをじっと見ている化学者の眼で。
わたしの右腕を掴んだまま、わたしの視線を無視したまま紀氏は話を続けた。
「今の世の中ずいぶんと便利になったんですよ。例えばこの写真、実はデジタルカメラで撮ったものでしてね、いくらでも複製が可能なんです。しかも安価な値段でね。それこそ学内中にばら撒くのも簡単です」
「!!!」
「それにデジタルデータですからね、インターネットを使って世界中に送信することも簡単です。ね、便利な世の中でしょう? 貴女のいう下司野郎には実に素敵な世の中じゃありませんか」
デジタルデータとかインターネットとか、意味は半分ぐらいしかわからない。けれど最悪の事態であるということだけはわかった。
「ふ、ふざけるなぁ・・・」
もう、精一杯の強がりでしかなかった。
思い起こしてみれば呼び出されたとき、『旧校舎のことで話をしたい』ってメモを靴箱から見つけたときから悪い予感はしていた。思い当たることは一つしかなかったから。
悪いことをしているとは思っていない。けれども誰にも知られてはいけないことだとはわかっていた。だからできるだけ注意を払ってるつもりだった。
そう、あくまでも『つもり』だったんだ・・・
「まぁ貴女はかなりタフそうに見えますからこの程度では堪えないでしょうね。けれどもこの女の子・・・大塚和恵さんはどうでしょうねぇ?」
「!!!!!!」
その言葉・・・初めて思い出した。和恵のことを。
なんてことだろう・・・その可能性を最初っから考えなかった。
何か起こるとしてもわたし一人にだけだと思っていた。
冷静に考えればそんなことはないのに。
「おや、ずいぶんと顔色が変わりましたね。そんなに大切ですか、この娘が」
「貴様ぁ・・・」
一瞬、浮かぶ。和恵がこの男に陵辱されている姿が。
その余りにものおぞましさに恐怖が怒りに押さえ込まれていた。
そして、わたしもそうなるかもしれないということも忘れていたのはただの逃避だったのかもしれない。
精一杯の視線。
呪いをかけるように、そう、『邪眼』『邪視』という魔法が使えていたのならばこの男を八つ裂きにできるぐらいに。
けれどわたしは魔法使いじゃなくて、そして支配者はこの男だった。
そのことに気付きたくなくて、精神の全てを視線に込める。
「恐ろしいですねぇ、同性愛というものは。変なことをしたら殺されてしまいそうな迫力です」
それでも、この男には髪の毛一筋ほどのダメージにもならなかった。
こんなに軽々しくわたしをあしらう。
「和恵に指一本でも触れてみろ! 殺してやる・・・殺してやる!」
そして、搾り出すようにして言ったこの言葉はもう涙の色が混じっていた。
悔しくて、無力で。
わたしにはこんなことでしか和恵にむくいてやることができないなんて・・・
「なるほど。指一本触れる、ね。ということはこれをばら撒くことはそれに含まれていないわけですか」
「そんなわけないだろう!!! 和恵を傷つけること全てを、だ!!!」
「そうですか。ま、わたしは最初からその気はないんですけどね」
「・・・・・・」
「信用できない、ですか。貴女には下司野郎と映るかもしれませんけどね、わたしこれでも嘘は言わないんです。わざわざそんなことをする必要もありませんしね、今更」
この言葉の意味、わたしはわからなかった。
わざわざ? 今更? 一体どういう意味・・・
「おやおや、不思議そうな顔してますね。半分は理解できると思っていたんですが」
そして。
がちゃ!
耳障りな金属音。
「・・・これは・・・」
よっぽど呆けていたのかもしれない。
この異様な状況、秘め事を知られ、追い詰められ、わからない言葉で追い込まれ・・・そしてまた咀嚼が難しい音がわたしの思考を鈍磨させた。
右手からぶら下っているそれが『手錠』というものだと記憶を引き出すのにはゆうに10秒近くかかっていた。
「便利な世の中ですよ。通信販売でこんなものまで買えるんですからね。ちなみに3500円でした」
そして、後ろからの声。
はっと気付き振り返った瞬間には左手も絡めとられていた。
繰り返される金属音。
全身を紀氏に向けたその時にはわたしの両腕は既にわたしのものじゃなくなっていた。
「いかんせんわたし、臆病なもので。両手を自由にさせておいたらいつまたさっきのように殴りかかってこられるかわかりませんからね」
「・・・・・・あ・・・・・・」
わかった。
愕然とした。
わたしだ。
わたしが、なんだ。
ワタシガコレカラレイプサレルンダ・・・・・・
何で気づかなかったんだろう。
こんなところに一人で呼び出された。
あんな写真を脅迫材料にされた。
もう、その時点で気が付いていても良かったのに。
そうすれば逃げ出せていたのかもしれないのに。
今更ながら、目の前の男がどれほど恐ろしいのかがわかった。
虎の檻の中に入っているような気がした。
わたしはどうしようもないほど無力で、この男に完全に支配されている。
怖い・・・怖い、怖い!!!
「あ・・・ああ・・・あ・・・」
奥歯が震えてがたがた言う。
脚が震えて立っていられない。
意識がわたしの心から離れてる。
「おやおや。ようやくご自分の立場を理解したようで・・・でもそんなに怖がることはないんですよ。ほんのわずかな間だけ・・・ですから」
にやり。
笑った。
眼鏡ごと。
そんなわけないのに。
けれどもそのときわたしには目の前にいるのが同じ人類だとはとても思えなかった。
爬虫類から進化した別の系統樹の生き物だと思った。
男なんて。
そう思っているからか。
ううん、違う。
そう、わたしは今、蛇の大きな赤い口を大きな眼で見つめながらゆっくりと飲み込まれていく蛙の気持ちを理解していた。