暗く湿った洞窟。
その闇にまぎれるようにハヤメは前に進んでいる。
空気の揺らぎすら感じることはできない。
床といわず壁といわず、そのところどころがボウとはかなげな光を吐き出している。
ヒカリゴケの一種なのだろうか?
そのおかげでかろうじて足元が見え隠れする。
ゆっくり、そして完璧に足音を消しながら歩を進めていく。
既にここは幻老斎の本拠地へと続く道なのだ。
そこには、幽鬼楼というふざけた名前を付けているようだが...まあ、それももうすぐ終わりだ。
速女の顔に冷めた笑みが浮かぶ。
既に彼女の頭は幻老斎を倒した後の展開について考えが及んでいる。
それも当然かもしれなかった。
速女にとって自分が敗れるときの筋書きなどは全く無用であったのだ。少なくとも今までは。
自分が負ける...そんなバカな。
そんな後ろ向きな思考は愚者がすればよい。
負けることを考える前になぜ負けない努力をせぬのか?
速女には、それがどうしても理解できなかった。
それにしても幻老斎のことも腑に落ちぬことは多い。
およそ2,3年前にひょっこりこの地に現われたと思ったら、一夜にしてこの幽鬼楼が出来あがり、そこに居を構えるにいたったと聞く。
それが誠ならばいかなる術を使ったのか分からぬが、そこから幻術使いという風聞が広まったのであろう。
それにしても何者なのか...本当のところは誰もしらない。
外見がせいぜい老齢の男というくらいだ。
だが度重なる里からの恭順を促す使者を跳ね返す自信はいったいどこからくるのだろう?
それに「鬼哭の書」....わからぬことが多いな。
しかし、里から命を受けた以上、あたしはそれに従うしかない。
隣国と何をしようとしたのか知れぬが、それも今日までね。
速女は気配を断ち、闇へと消える。
そして幽鬼楼の一角では、薄暗い部屋の片隅で一人の男が自分の手をじっと眺めている。
深く刻み込まれた皺と黒ずんだ肌。
年齢の積み重ねをヒシヒシと感じてしまう。
「この体も年をとったものよのう....」
白髪の男の名は幻老斎...齢は60を超えているのだろうか?
いや、もしかしたら70近いかもしれない。
それにしても肉体の衰えも隠しにくくなったものじゃわい。
もちろん技の切れを考えたらそこらへんの雑兵ども相手にはまだまだやれるだろうが、それもいつまで持つことやら。
そろそろ潮時かもしれんな....老人はひとりごちる。
その時であった。
首筋に気の動きを感じとる。
その瞬間、老人は−−−−跳んだ。
動作から動作への変わり目を見ることはできない。
それまで老人が座していた場所には正確に手裏剣が2本打ちこまれている。
宙で一回転し、片膝をついて着地した幻老斎は、やにわに兇刃が飛んで来た軌跡をたどる。
するとそこには周りの空間に溶け込む様な静けさで見知らぬ少女が立っていた。
しかもとびきり美しい...
里のものか...幻老斎は即座に理解した。
まあ、あれだけ申し出を拒みつづけたのじゃ、奴らが焦れるのも無理なきことよ....それにしてももしやわしが隣国と組んで画策していることも嗅ぎ付けたのかもしれんな。
どちらにしてもタダではすむまい。
殺るか、殺られるか。
一方で自分はそんな暗殺者を相手にしているにもかかわらず、殺意以外の感情が彼女に対しては自然を首を持ち上げてくるのだ。
それにしても、見目麗しき女子(おなご)じゃな。
里にもこのような者がいたとは...いや、里だけではなくわしがこれまで会ったどの女子よりも綺麗じゃわい。
これまでの長い、そう長すぎる人生において...もったいないことよ、ただ殺すにはな....ここは一つ...じっくり嬲ってやるわい。
ヒヒヒと笑いながら幻老斎が跳ねると同時に速女も地を蹴る。
速女は空中ですれ違い様に背中に挿した匕首を抜く。
その手の動きが...見えない!!
先ほどまでの笑みが凍る。
立て続けに放たれる手裏剣を紙一重でかわしていく。
手裏剣の先には秘伝の猛毒が塗りこめられている。かすっただけでも死に到るのは 確実だ。
こやつ、できるな....
女だと甘く見ていたが、その技の切れは想像をはるかに超えるものだった。
一瞬のやり取りでも、それはわかる。
嘗めてはかかれんか。ならば...これでどうかな!
振り向き様に光球を放つ。
念を封じた必殺の一撃だ。
しかし華麗な曲線を描き、速女はよけてしまう。
うぐ、なんと...
もう少し、わしが若ければ決して引けはとらぬものを...
幻老斎は息の乱れを整えながら悔しさに歯噛みをする。
これほどまでに老いたということが恨めしいことはなかった。
若若しさが弾けんばかりの速女の瑞々しい肉体。
あれだけ激しく動いても息一つ荒立てることなく、こちらを澄んだ瞳で静かに見下ろしている。
しかし...
超人的な速女の運動能力を眼のあたりにして追い詰められたかに思いきや、一転老人は不気味な笑みを浮かべ始める。
「やむをえまい...奥の手を出すか...」
印を結び何やらつぶやきだすのだ。
幻老斎といえど所詮はこの程度に過ぎぬのか...失望したぞ。
あわてて逃げ惑うだけの幻老斎はただの老いさらばえた老人でしかない。
威力のまるでない光球など見苦しいだけだ。
速女の美貌は冷淡に輝く。
ならば、これまでにしてやる!
彼女は神速の速さで必殺の手裏剣を叩きこむ。
かわす間はない。
そう、それは老人の体にめり込む.....はずだった。
それが空中で停止する。
いや、正確には止められたのだ。
老人をかばうように空間の歪みより現われし矮小な生物。
投げられた手裏剣は2体の異形の生物の前で、浮かんだまま静止しているのだ。
いかなる力が働いているのだろうか?
いや、それよりもまずこいつらは何者なのか?
赤と青の2匹のずんぐりとした化け物。
どこが顔か頭かわからないが、2本の手のようなものをだらりとたらし、空間を浮遊している。
「くくく、これが古の邪悪な存在....緋魂魄と碧魂魄じゃ。前に奪い去った鬼哭の書に基づきわしが魔界より呼び出した奴らじゃよ。召喚者には絶対服従の戦闘生物。隣の国と共謀して異形の兵を操りこの国に攻め込むまで伏せておくつもりだったが仕方が無い。人間相手には秀でたお前の運動能力も、人知を超えたものの前では果たしてどうかな?」
ブン、と空気が震えると同時に空中で停止していたはずの手裏剣が逆に速女めがけて返される。
あわてて飛びのく。
なんてやつらなの...
不安がよぎる。
赤と青の2匹の化け物の体が二つに裂け始めたかと思うと、大きな口ともいえる紅鮭色のぬめひかる亀裂が表れた。
空気を吸いこみ体が一回りは大きくなる。
そしてそれを一気に吐き出す。速女めがけて。
辺りの空気を引き裂きながら、その波動が速女にぶつけられる。
音速を超えようかという衝撃波をよけるまもなく食らってしまう。
「ぐはっ!!!!」
そのまま、壁にまともに打ちつけられていく。
本能から受身の体勢をとったが、鈍い痛みが体を覆う。
なに...今のは..
痛みをこらえながらも、敵を見据える。
「さしものお前も人外の魔物の前では無力よのぉ。ふぉふぉふぉ...」
「余計なことを言うな、くらえ!」
速女が手にした匕首が煌いた。
それを真一文字に振り下ろす。
あらゆるものを両断できる秘剣だが、その刃の先にあるはずの敵の姿が...消えていた。いずこに....?
次の瞬間、異界のものどもは、速女を挟み込むような形で両脇に出現していた。
そこから再び放たれる衝撃波。
両側から体を押しつぶさんばかりの圧力が襲いかかる!
世界が反転する。
思わず床に伏したとき、太股にチクリとした痛みを感じた。
幻老斎が放った含み針だ。
その針の先には強力な痺れ薬がしこんである。
速女はたちまち自分の脚に違和感をおぽえ始める。